────逃げようとしてるでしょ────
「えっ!?」
────逃げても良・・・いけどね────
届くか届かないか、そんな細やかな呟きだったと思う。
ホテルの一室。
いつもの情事。
それを終えてシャワーを浴びようと脱ぎ捨てた服を拾っていた時だった。
聞き返しても返事は無く、そのままバスルームへ向かった。
逃げる────
何から────
この状況を逃げてると言われればそうだ。
と、いつの間にか肯定できる様になっていた。
────逃げても良いのよ────
────逃げなきゃいけない時もある────
────辛いなら逃げて逃げて逃げ回って他の事をなさい────
────それでもきっと・・・貴方にとってそこが大切だと気付く時は来る────
────誰かと同じだけの大切を持てる時もね────
────だから今は────
頭に響いたのは、別な女の声だった。
初めての人。
抱き締めてくれた人。
慰めだと溺れさせてくれた人。
姉の様に。
母の様に。
その腕で。
その肉体で。
その傍で。
泣かせてくれた人。
けれど今は。
その感触さえも忘れていた人。
────利用してよ────
熱い湯が落ちる中、腹の下に彼女が付けた痕を見つけた。
一時の所有の証。
────こんなとこ見えないし見る人いないから大丈夫────
薄れる頃には、仕事に没頭してるだろう。
そうして来た。
それでよかった。
潮時。
という言葉が頭を過ぎる。
けれどそれが終わりなのか始まりなのか。
そのどちらでもあってどちらでもない状況。
そのどちらも選択することを躊躇った。
暗がりに全開のカーテンは、月明かりを呼び込んで、
ベッドに膝を抱える彼女を幼く魅せる。
────不安。
そうさせているのが自分だと知っている。
大人ぶって、何でも知ってるような顔をして、何も知らない彼女。
俺の琴線に触れるのを躊躇っている。
あの人とは違う。
あの人は、俺をこじ開けて、ズタボロにして。
────捨てる!?違うでしょ────
────拾ったのはあなたの抜け殻、それで好かった筈よ────
────ここに・・・そこに違うものが流れ始めているでしょ────
────足りないなら連絡して来ても良いけど・・・良く考えてからになさいね────
最後に会ったほんの数か月前。
俺の変化に気付いてた。
沈むスプリングと軋む音にこちらを向いた顔。
泣いたのかと聞きたい衝動よりも体が先に動いてた。
「っ、あぇ・・・どっどうしたの!?」
俺の胸を押しながら驚いた顔がはにかむまでにそう時間もなく。
俯いた顎を指先で持ち上げれば俺の姿が瞳から瞼に吸い込まれた。
「逃がさないからもう一回君が欲しい」
縫い止めた手に絡む指先にずるいわと動いた唇に。
後頭部に回った手の平と腕に。
止められない衝動を打ち込み続けた夜だった。
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