女の仕種にある時が止まっていた。
女とミニョの間には奇妙な静謐(せいひつ)が流れ、見下ろす男もそれを纏うが如く不思議な感覚に囚われていた。
『何をした!?』
スゥーと軽い寝息を立て始めたミニョの顔を覗いた男は立ち上がった女の背中に声を掛けた。
『少し、複雑な話を聞いて欲しいのです・・・その子が泣いている理由もお教えします・・・』
小さなミニョを抱いて穏やかに眠る顔を見下ろし、木立の一本に背を預けた男と女の視線が交わっていた。
やはりどこかでと考える男を嘲笑う様に髪を掻き揚げた女は、顔を逸らして男の名を呼んだ。
『・・・・・・ミニョにも名乗った覚えはないぞ』
『そう・・・でも、間違っていない筈・・・煌(フォアン)という国の出身でしょう!?』
『ああ、数十年前に無くなった国だ・・・・・・・・・俺が・・・滅ぼした・・・』
『貴方ではないわ・・・大勢の人の力に滅ぼされただけです』
『ふ、だが、俺の力が原因で滅びたのだからやはり俺のせいだ』
『貴方は言われるままをしただけで、幼子に国を負わせた大人が悪いのです』
『何でも知っているんだな・・・つまりお前・・・人ではないのか!?』
じっと見つめた男の視線を横に女は笑っていた。
自嘲的な笑みは、暫く続き、首を振った女は、腕を伸ばして木の葉を落した。
『私は人です・・・けれど、忌み嫌われるものは、人でありたいのが常だと思いませんか!?』
数枚の内の一枚の破れた葉を拾った女と再び交わった視線を今度は男が先に逸らしていた。
俯いた頭は、肩と背中を揺らし、あげた顔に清々しい程の笑みを浮かべた鋭い目が女に向いた。
『ふ、正に・・・そうだ・・・』
『睨まないでください・・・その力のお蔭であんな場所でも生き延びているのでしょうから』
『・・・ああ・・・そうだ・・・呪いの腕より・・・遠見が上だ・・・だが、全てに通用するわけではない』
勘が鋭いとそれだけでは説明のつかない力を男は持っていた。
最初は天気を当てるという程度のものだったが、全てを見通すが如く頭に浮かぶ事象が現実になる。
幼子は、それをそのまま口にして、けれど、そのせいで家族から疎まれ、他人には、蔑まされる様になった。
今をこうして生きているのは、歳の離れた兄が、捨てられそうになった男の手を引いて家から逃げ出し、拾ってくれと旅の呪い師に頼み込み、説明のつかない力は、祝福なのだから役に立つ日が来るのだからと教えてくれたからだ。
『子供が来ることを知っていて、だから驚かなかったし、ここまで連れて来てくれたのでしょう・・・』
その兄もいつの間にかはぐれ、今は、顔さえ思い出せない。
『気まぐれだ・・・それにお前の事は見えなかった・・・それで、何を聞かせてくれるんだ!?』
昔話ですと笑った女は、暫く口を噤んだ。
木立の横に立ち、遠くを見ているであろう背中の脇ですぅーっと緩やかにあがる腕の先を見た男がひとつ、頷いていた。
『あの城の噂ならば広く知られている・・・誰も近づかない場所だ・・・いや、近づけないという方が正しいか・・・道はあっても辿りつけず・・・・・・美しい対の肖像があるそうだが、そこに描かれた男が彷徨って・・・誰かを待っているのか、ただ、そこから出られないのか・・・古い肖像だというが、不思議と廃(すたれ)る事が無いと・・・まるで御伽噺だ』
『廃れない訳では無いのです・・・絵も人も廃れてる・・・ただ、不思議とそう思う度に一緒に生まれ変わるだけ』
『な・・・に・・・』
空に掲げた手の先で女は何かを掴む様にゆっくりと拳を握り、それを見つめた男は、逆光に触れた目を閉じた。
『もしかしてお前・・・片割れか!?』
『正確には、その子です』
最後の別れを称えた太陽は、ゆっくり目を開けた男の視界から女を消し去っていた。
訪れた闇の中で同じ場所に立ち続ける女にミニョを横たえた男が近づいた。
『・・・ミニョが!?』
『そう、そして、男は、先程見守ってくれた人』
『お前達が、御伽噺の!?』
『御、伽噺・・・そう言われるほど長い年月が経っているという事ですのね・・・疲れてしまうのも仕方が無い・・・私にはこれが現実だけど・・・その子は、古い記憶と現実と・・・可哀想に・・・』
沈んだ声で振り返り、踏みしめた草土が音を奏でていた。
しかし、今まで唯のひとつも仕種から出る音を聞いていない男は顔を顰め、靡く女の髪に手を掛け横に払うと指先に僅かに触れた感覚に実態がある事を知った。
『嘆いている様に見えないお前の方が哀しいな』
真に心は判らない。
まして後ろ姿では何も見えない。
五感を研ぎ澄ませても声に宿るそれと心が違うと男は言った。
『ふ、そういう所は変わらない・・・得手に顔を探す人・・・だから、苦手なのに・・・』
『何か言ったか!?』
『いいえ・・・』
薪を拾った男は、ミニョを抱えた女の前でそれに火を点けた。
闇の中に赤く広がる炎を見つめながら女は、話を続けた。
『助けて欲しいのは、この子のこれからの面倒を見て欲しいのです。死を迎えるその時まで記憶を封じて欲しいのです・・・』
ミニョを膝に髪を撫でる女を見つめながら男は、首を振っていた。
吐き出された息に女のあがる顔を真正面から見つめた。
『その為だけに俺の前に現れたんじゃないだろう・・・そんな事なら俺でなくとも可能だ・・・・・・もうひとつ・・・あるんだろう!?』
『ええ、貴方にしか出来ない事が・・・そして、これは、あなたの願いも叶えます』
立ち昇る火花と煙とその向こう側で鮮やかに笑う女の顔を男は、安堵を抱いて見つめていたのだった。