一時間後、老人とテギョンの前で立ち上がったミナムは、着ているワンピースの裾を掴んで、いつもの回転の良さが無くなった頭を抱えていた。
『そ・・・れはさぁ・・・どういう・・・!?』
『話を聞いていたか!?』
察しが悪いと革張りの冊子を掴むテギョンは、それをポンとテーブルに叩きつけた。
『い、や、ちょっと待て、俺があんたより鈍い訳ないじゃん!解ってるよ!判ってるけど・・・』
あせあせ冷や汗を拭っているミナムは、老人の視線を感じて、そちらを見るとボスンと元の位置に戻っていた。
『その内容では、気に入らんかね!?』
穏やかに悠然と話す老人は、威厳というものが、所作のひとつひとつに現れ、委縮しているミナム
にいつもの覇気は無い。
『いっ、いえ・・・そういうことではなくて・・・』
隣に座るテギョンのあまりに平然としている姿に逸らした顔で舌打ちをしたミナムは、前に放り出された冊子に手を伸ばした。
『こ、この内容は、理解しました。つまり、これだけの契約を・・・』
『不服ならもっと増やしても良いぞ!というよりもこちらは、もう少し増やして欲しいのだが、こいつが承知をせんのだ』
テギョンをこいつ呼ばわりする老人を盗み見るミナムは、手元の冊子に書かれた内容を上から順 番に追いかけている。
『どうだ!?』
『どうっていうかさぁ・・・・・・』
ひとつのページを読み終え、次を捲るミナムにテギョンが聞いた。
『お前に話を通すのが筋だ。お前が承知しなければ、何も出来ない』
ミナムを見るテギョンの真剣な表情は、それだけ本気が滲み出ていて、どう答えるべきなのかを迷うミナムは、最後のページを捲って首を傾げた。
『えっ・・・と・・・尚・・・ファン・テギョンの了承無きものは・・・無効と・・・なる・・・って何だよこれ!!』
『そのままだ』
『そのままって何だよ!あいつの意思よりお・・・失礼っヒョンの意見が先行するって事かよ!』
横を睨むミナムにテギョンも睨み返していたが、腕と脚を組んでふんぞり返った。
『お前こそ、あいつの仕事ぶりというものを知らないだろう。あいつはな、俺がいなければ何も出来ないんだ。俺の後をくっついて回る金魚の糞だからな』
『はぁぁ!?あんたこそ、ミニョの何を知ってるって言うんだっ!たかが一ヶ月かそこら一緒に居ただけじゃないかっ!帰って来るまでの右往左往だってあんたのせいであって、ミニョは、少しも悪くないんだぞ!それを散々泣かせておいて、今度は、何で泣かせようって言うんだよっ』
眉を動かしたテギョンは、けれど無言だった。
唇が僅かに引き攣れたが、無言のままミナムから視線を逸らし、ミナムもまた書類に目を戻したが、ふたりの沈黙を破って笑い始めた老人にミナムが驚いた顔を向けた。
『ふはははっはは、こいつはな、こういう仕事をさせるのは、正直、反対だそうだ。だがな、わたしに返さなければならない借りがあるんだ。良くも悪くもこいつの意思では、断れない』
『・・・は、ぁ・・・』
『わたしとしては、君と個人的に話をしても構わないぞ』
テギョンを横目で見る老人は、その顔を笑って、ミナムに視線を戻した。
『こいつとの契約は、別に持っているのでな。こいつを抜きにして話し合うか!?』
『そんなの許せる訳っ・・・・・・』
『外野は、黙っていろ、ファン・テギョン。わたしは、今、コ・ミナム君と話をしている』
老人の一喝で、テギョンの渋い顔は、増々渋くなったが、反論は閉ざされた。
『ふ、お前みたいな若造でもわたしに願い事をした時点で、どうなるかは、承知していた筈だ。見返りも無く人を助ける程、わたしは甘くない』
『チッ!そんなの初めから解ってましたよ!だから、なるべく使いたく無かったんです』
『使ってしまったものは、仕方が無いな。時計は、元に戻せても時間までは、戻せない』
老人とテギョンの間には、緊迫した空気が流れていた。
しかし、その緊迫感の中に僅かに揺れている空気があって、それに目を細めているミナムは、先程の一文を指でなぞり乍ら爪を噛み、冊子をテーブルに投げ捨てたのだった。
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