「・・・これ、ジュンシンが練習をしていたのとは、少し違いますね」
テーブルの上の五線紙を見つめたユンギは、ギョンセとヒジュンを交互に見た。
「この小節・・・ここは、音階が変わってる」
指で示した小節をなぞっている。
「アレンジ済ですか」
「ああ、それは、最初の譜面だよ、そのままじゃ使えないからね・・・仮にもA.N.Jellのコンサートだし、テギョンに恥をかかせたくは無いんだ」
笑ったギョンセにユンギが目元を緩めた。
「親心ってやつですか!?」
「まぁ、そうかな・・・リンもテギョンに一杯ありがとうを言わなくちゃね」
俯いたギョンセは、面映ゆい顔でリンの髪を撫でている。
「言ったよー、でも、完璧な演奏で返せって言われたー」
「はは、あの子らしい・・・容赦がないな」
ギョンセの膝で両手を挙げたリンは、ヒジュンの曲がった腕を見た。
「さ、て、そろそろ7時だ・・・」
「そうだね・・・ルームサービスでも頼もうか・・・」
「話の腰を折るのは、おふたりともうまいですよね」
ヒジュンの時計に目を向けたユンギは、溜息を吐いている。
「リン、好きなものを選んで、フロントに電話をしてくれるかな・・・お酒は・・・ん、これだね」
「はーい」
ルームサービスメニューを受け取ったリンは、背中を押されて隣の部屋に向かい、ギョンセは、テーブルの譜面を片付け始めた。
「ソンジンの曲は、それ以外にもあるんだけど、それは、後で、君のオモニが渡してくれることになっているから、受け取りなさい」
「え、ちょっと待ってください!?オモニ!?」
駆け出したリンの背中を見送ったユンギは、驚いて振り返っている。
「コ・ミニョの曲を書く様に仕向けたのは、お前のオモニに相談されていたからだ」
「は!?え!?なっに!?」
頭に手を乗せ、顔を半分覆ったユンギは、ソファの肘掛けに置いた手を滑らせた。
「お前、女と別れてから、全く恋人を作っていないんだってな!?」
「最近は、見合いをさせられているんだろう!?」
テーブルで書類を整えているギョンセに体制を直したユンギは、目を瞠っている。
「何の関係が・・・」
「ある日突然、新規事業ですとギター抱えながら経済誌に嬉しそうに載ってた息子の写真を見せられて、この人に会いたいとあちこちから連絡を貰った女の話だ」
「な、んですか!?それ!?」
ヒジュンの少し大きな声にユンギは瞬きを繰り返し、目を細めたヒジュンは、舌打ちをした。
「お前がスペードを再開させた後、インタビューを受けただろう!音楽誌は全て断っていたが、経済誌だ・・・あれを見た連中が、今の見合い相手で、どこそこの社長令嬢とか、役員の娘とか、お前の親戚連中も年頃の娘の写真を持っては、家に押しかけてたぞ・・・まぁ、ミンジは、特定の人間以外、アポが無いと門前払いをするのは有名だから、ミヨルの方に連絡をしている奴もいるみたいだけどな」
「最近パーティーへの招待状が増えているだろう!?海外からもあるんじゃないかい!?」
「お前の秘書が優秀だからな、ミンジと組んでスケジュールの調整をしてる」
テーブルを片付けたギョンセから書類を受け取ったヒジュンは、ソファに片足を引き上げ、背もたれに寄りかかって向きを変えた。
「は!?え!?ヒジュンも!?」
綺麗になったテーブルに譜面を置いたユンギは、二人を交互に見ている。
「コンサートに出る為のお膳立ては、全部あのふたりが、やったんだ」
「なっ・・・!?」
顔をあげたユンギは、隣の部屋に目を向けた。
「ふ、始まったな」
「ああ、練習する為に来たからな」
ユンギの前に置かれた譜面を引き寄せたギョンセは、向きを変え、ヒジュンの前に差し出している。
「これが、ソンジンが書いた譜面で、私達が演りたい理由は、さっき話したよね」
「アボジとの約束ですか!?」
頷いたユンギは、微笑んで俯いたギョンセを見つめている。
「そう、ソンジンが音楽を辞めると決めた時に私が預かって、あいつが死んだ後に君のオモニに返そうとしたんだけど、受け取って貰えなかったんだ」
ギョンセは、ヒジュンを見つめた。
「受け取らなかったのはなぁ、お前が、ソンジンと違って音楽を辞めなかったからだ・・・お前は、会社に新しい部署を作って、子供の教育の幅を拡げて・・・バーで歌ってた」
ヒジュンは、目を閉じている。
「夢と彼女と一緒に失くした君の気持ちは、私達には測り知れない・・・君のオモニは、一番近くでそれを見て・・・ソンジンが音楽を辞めた時も一番近くに居て、君が家に戻った後も一番近くにいただろう!?」
「ミンジに言わせるとな・・・今ならどちらにも償えるんだそうだ」
長い溜息を吐いたヒジュンは、ギョンセに頷き、ユンギは、きょとんとした。
「つ、ぐないですか・・・何を!?」
「お前に夢と女を諦めさせた事だろう!?お前は恋人と別れなければ、家に戻ることも会社を継ぐことも無く、スペードでデビューをしていたんだろう!?」
一瞬、黙したユンギは、首を振って自嘲的に笑っている。
「結果論ですね・・・俺、別に後悔は、していません」
「それも結果論だな・・・追いかければ良かったと悔やんだお前の気持ちは、歌う事で発散されてただけだ」
「嫌味ですね」
ヒジュンを睨みつけたユンギを腕をあげたギョンセが笑って制した。
「まぁ、まぁ、これから話すのも結果論だろ・・・ソンジンが、音楽を辞めたのは、君のオモニにも関係があるんだ・・・君に話してくれと頼まれているから私達から話すけど、後でオモニにも聞きなさい」
頷いたギョンセにヒジュンが、ソファの脇から封筒を取り出してテーブルに置いた。
「イ・ソンジンて男はな、小さい頃からいろんな楽器に囲まれて育ち、音楽史とかオーケストラの組み方とか、そういう方面に精通した奴だった・・・三男坊で、勝手やってて、その内、自分で曲を書いてコンクールに応募する様になって・・・何度か応募をしている内にいつも同じ奴と競い合っていると悔しそうに話した事があったが、俺とそいつは、大学に入るまでは、顔も合わせた事が無くて、でも出会ってみると割と気があって、よく交遊したな」
封筒を引き寄せたギョンセは、中を覗いている。
「ソンジンとミンジは、親が決めた許嫁同士だったんだが、ふたりは、そんなもの無くても尊敬しあっていてな、誰もが時期がくれば結婚するんだと思っていたんだが、ある日、婚約が破棄されたとソンジンから聞いてな・・・俺達は、当然、理由を訊ねた・・・けど、あいつは、首を振るだけで、一切、何も言わなかった・・・」
封を閉めたギョンセは、ユンギの方を見た。
「それから、暫くして、ソンジンが大学から消えてね・・・休学届を出していたんだが、戻って来たのは、一年後で、大学を辞めると言った」
「ソンジンがいなくなった頃、ギョンセは、有名なコンクールで幾つも賞を貰ってて、将来有望って噂が出始めていたんだが、実は、ソンジンも同じコンクールで、賞を貰える位置にいたんだ・・・・・・けど、本人が、協会に出向いて来ないという理由で、全てが、中倒れになっていて・・・俺は、ギョンセが賞を貰ってた場所に多方面の音楽関係者が、集まっていたから、よく一緒に着いて行っててな、そこで知り合った奴に譜面も応募者名も本人のものだが、本人が、送っていないという内部の話があると聞いたんだ・・・実際、送っていたのは、ミンジだった」
「ミンジの父親の会社がね、傾いていたんだ・・・ソンジンの父親は、資金提供を拒んで、あいつは、事業とは無縁の位置にいた筈だけど、婚約破棄はそのせいだ・・・あいつが消えて、行先を知らないミンジも慌てて、私達と一緒にいる事も多かったし、ソンジンの夢も知っていたから、どうにかしたいと思ったんだろうね」
テーブル上を見回したヒジュンは、水の入ったピッチャーを指差している。
「お前の継いだ会社な、教育を売りもんにして、それが経営の主体になっているけど、ソンジンが、最初に手がけた仕事は、あれじゃぁない・・・・・・光州にある小さな楽器輸入の会社だ・・・作ったというよりも立て直して、一年で業界トップに押し上げた」
「光州!?」
ピッチャーを滑らせたギョンセは、グラスを並べた。
「そうだ、今もな・・・ソンジンの親父が取引してた会社の一つで、取引を止めた後、細々と事業を継続して・・・いなくなった一年でソンジンが立て直してたんだ」
「戻って来たソンジンはね、ミンジと結婚すると言って、私達を二度、驚かせた、でも、一番衝撃だったのは、音楽を辞めると言われた事かな」
「お前は、そうだろうな・・・俺は、あいつと小さい頃から一緒にいたから、それ程驚かなかった・・・むしろ、結婚と聞いて納得したな」
水を注いだヒジュンからグラスを受け取ったユンギとギョンセは、口を付けている。
「ふ、ミンジに惚れてたお前らしいな」
「へ!?惚れ!?」
グラスに水を吹き出したユンギは、目を丸くして、ヒジュンを凝視した。
「ばっ、お前、何を言うっ!四十年も昔の話だっ!」
ヒジュンもグラスに吹き出し、膝を拭っている。
「こいつ、ソンジンとミンジが、手を繋いで遊んでいるのが羨ましくて、しょっちゅう真ん中につっ立って邪魔をしていたらしいよ」
涼しい顔で、グラスを煽るギョンセは、クスクス笑った。
「ガキの頃だけだっ!」
「いつも邪魔をするからミンジに『わたしの旦那様は、ソンジン君だけなの!』って、怒られたんだよなぁ」
「あっ、あいつは、昔から気が強っ」
「気が強い女性が好きなんだよ」
ギョンセに見つめられたユンギもクスリと笑い、ヒジュンを見ている。
「へー、なら、アジュンマも気が強いんですか!?」
「うっ、うるさいなっ」
赤い顔で、背中を向けたヒジュンは、大きな舌打ちをして、水を飲み干した。
「ソンジンはね、立て直した会社を父親に買ってくれと持ち掛けたんだけど、君のお祖父さんは、何故そんな事をしたかを解っていたんだよね、ミンジの父親に事業の業績全部を渡すと迫って、息子共々引き受けて貰える様にしたんだ・・・息子の経営手腕を買って、今すぐ、結婚させろってね」
「その後は、お前も知っての通り、今の会社を立ち上げて、親父さんの会社を全部、自分のグループ下に置いたんだ」
渋い顔で向き直ったヒジュンは、テーブルにグラスを置いて水を注いでいる。
「音楽はね、辞めるとか辞めないとか、そういうものではないけれど、ソンジンが目指していたのは、わたしと同じだからね・・・曲を知って、構成して、相応しい楽器や人を配置したり・・・経営者と似ているよね・・・纏めあげるのが仕事だ・・・」
バタンと開いた扉の音に三人は、顔をあげ、走って行くリンを見た。
「大学を辞める日に、私達を講堂に呼び出したソンジンはね、最後のセッションをしようと譜面をくれた・・・でも、演奏、出来なかった」
「正確には、三人じゃぁメロディーにならない!だ」
テーブルの封筒をユンギの前に滑らせたギョンセは、指を差し向けている。
「どういう事です!?」
「そ、れ、あいつから預かった譜面」
「え!?一枚じゃ!?」
示されるままに封筒を開けたユンギは、束になった紙を取り出し、捲っている。
「リズム譜ばかりなんだよね・・・複数の楽器を組み合わせないと曲にならない」
ソファに沈んだギョンセは、リンを捜し、扉を開けた背中を見つめて笑った。
「講堂には、ピアノしかなかったからな・・・あと、俺のギターだけ・・・
あいつがギョンセに託したのには、それなりの理由があったんだよなぁ」
ソファに沈みこんだヒジュンは、天井を見上げている。
「一曲にするには、それ相応の音楽知識がいるんだ・・・組み合わせ方によって、何通りでもメロディーが、出来る様になってる」
パンと膝を叩いたギョンセが立ち上がり、ユンギも譜面から顔をあげた。
「その譜面を渡されて、最後にこう言われたんだ・・・音楽を辞めるけど、いつか、それなりに年をとって、その時には、きっと、皆も子供がいるだろうから、これを一緒に演奏出来たら良いな、とね」
リンの後を追ったギョンセは、ウェイターに礼を伝え、ワゴンを受け取ったのだった。
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